第1講「シュレディンガーの迷い猫」


 「誰も月を見ていない時、月はそこにないとでも言うのか?」
           量子論の主張に反論して、アルバート・アインシュタイン

 アインシュタインは、量子論の主張の荒唐無稽さを示すつもりで、こう言ったらしい。だが、量子論学者たちはこう返答せざるを得なかった。
「どうも、そうらしい。その時、月はないんだ」

 このアニメもまた、赤と青の月に始まり、赤と青の月で終る。これは決して偶然ではない。
 ほとんどのカードを伏せたまま、一風変わったガンアクションアニメとしての体裁を崩さずに続いてきた本作品が、初めてその全容を見せ始めたのは、第21話。物語の最終盤4分の1にかかってからである。

 カロッスアは、「真実の場所」の扉を開けた瞬間、実は自分がずっと昔に死んでおり、本当はもはや自分が実在していないことを知る。そしてその瞬間、カロッスアは初めて銃弾を胸に感じて倒れ、消えていく。

 この展開をファンタジーとして解釈した場合、あまりに唐突かつ不条理な展開に怒り出す視聴者も多いことだろう。いや、それ以前にこれをどう解釈してよいか分からず呆然とする人の方が多いのではないか。

 だが、これを首尾一貫した法則として解釈する方法がひとつある。それが、量子論の世界に基づく世界観なのである。
カロッスアはなぜ死んだのか。
自分が死ぬ瞬間を観測したからだ。物事は、すべて観測した瞬間に確定する。
では、なぜ死んだはずのカロッスアが成長し、大人になって活躍していたのか。
自分が死んだことを知らなかったからだ。観測しない限りは、確率のひとつはそのままそこにある。人間ならば、時間が進む場所にいれば成長するだろう。

 
 量子論は、光が「粒」なのか「波」なのかを探る過程で成立した学問だ。光は様々な実験によって、その時々に「粒」のようであったり「波」のようであったりして、なかなか実像が見えにくかった。

 そして長い論争の末、導き出された結論は
「時に粒、時に波であり、両方の性質を持つ」
という常識外れなものだった。さらに研究を進めた結果
「誰も見ていない時は波だが、誰かが観察した瞬間に、どこか一点に収縮して粒となる」
という、さらに信じがたい結論が出た。次第に、光に限らず、原子核の周囲を巡る電子でも、似たような性質があることが分かってきた。(詳しくはテキスト参照)。
(C)あみ智つな
 観測していないときには濃淡のある確率の波でしかないものが(つまりどのあたりに何%の確率でいるとしか言えない)、観測したとたんにある一点に忽然と出現する。ここで注意してほしいのは、観測の精度が悪いので天気予報のように「A地点に20%の確率であるだろう」などとしか言えないのではなく、モヤモヤとした確率の分布そのものが「実体」である、ということだ。

 あまりにも非常識な結論なので、量子論学者の多くは、
「これはミクロの領域のみで起きることであり、我々が生活するマクロの世界では起きない」
ということにしようとした。

 だが、それはあまりにご都合主義的である。量子論に懐疑的だった物理学者のシュレディンガーは、ならば、こんな実験はどう説明するのか、と提起した。

 一時間後に原子核崩壊を起こす可能性が50%の放射性物質を、放射線検出装置と共に箱の中に入れる。放射線検出装置は毒ガスの発生器に接続し、放射線を感知した時に毒ガスが発生するようにしておく。これらの装置が入った箱の中に猫を一匹入れ、蓋を閉じる。閉じてしまえば、外に音は一切漏れないこととする。さて、一時間後、中の猫はどうなっているだろうか?

 量子論に基づくならば観測しない限り、原子核は「崩壊している可能性」と「崩壊していない可能性」が半分ずつ、重ね合わせになって存在している、ということになる。ならば、装置と運命を共にする猫も「生きている可能性」と「死んでいる可能性」が半分ずつ重ね合わせられた曖昧な状態なのか?

 シュレディンガーは量子論を論破するつもりでこのような実験を提起したのだが、これは皮肉にも量子論の不可解さをさらに強める結果となった。回答は大まかに二つに分かれた。
 一見非常識でも、やはりマクロの世界も「重ね合わせ」は存在し、観測しない限りすべての物質はモヤモヤした雲のような確率でしかない。そして私たちが観測した瞬間、ひとつの可能性に収縮する、とする「コペンハーゲン解釈」
 もうひとつは、私たちが観測した瞬間に、観測者ごと「生きた猫を確認する世界」と「死んだ猫を確認する世界」に分裂するとする、「多世界解釈」

 マドラックスの作品中では、この二つの学説が非常に巧妙に使われている。
私たちの世界では、どちらが正しいか(あるいはどちらも間違いか)決着はついていないのだが、マドラックスの世界では、コペンハーゲン解釈が正しいことになっている。
例外が「真実の場所」で、ここだけは多世界解釈が成立する。しかも、その無数の未来の可能性はすべて目に見えるうえに、時に実体化しさえする。ただしこれは「真実の場所」内部でだけのことであって、ここを出る時は、可能性のひとつだけを選択するか、過去の記憶を持った自分と分裂して記憶を失った状態で外に出るしかない。

 たとえば、こういう説明はどうか?

 フライデーはやむを得ず「顔を撃たれて負傷した」世界を選んで外に脱出した。しかしそれによって、撃たれた瞬間に分裂した複数の「撃たれた記憶がなく過去の記憶を失ったブウペ」を外に連れ出すことができた。その一人をエージェントとして養成し、カロッスア・ドーンとして育てた。フライデーはカロッスアに撃たれても痛くもかゆくもない。カロッスアが実は死んでることを「知っている」からだ。

 そして、他の一人はナフレスに渡り、偽者の記憶を与えられてガルザのリーダーの息子として育った。彼が第5話の主人公、クリス…
ただの憶測とはいえない。フライデーは最後に言うではないか。
「君はこの世界に存在していない」と。

 このようにつないでいくと、まったく謎のまま放置されているように思えるエピソードの数々が、すべて意味を持ってくるのである。それでは、実際のところ、どうなのか。次回以降、個々のエピソードを検証していくこととしよう。       (2004年10月5日)

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